私が小学校2年の時、テレビで水俣病の研究をしている女医さんを見ました。格好いいなと感じ、お医者さんになりたいと思いました。昆虫採集や野草を探すことが好きで、日々山で過ごしていました。小学校6年の時、はっきりと医師になろうと決心しました。その頃、父は政治活動をしていました。近所の人の困りごとに奔走している姿を見て絶対に政治家にはなりたくないと感じました。
高校3年の3月、国立大学の一期校の試験に落ち、二期校の受験のころ、父の選挙が始まりました。県議会議員だったか、市議会議員だったか覚えていませんが、試験目前なのに、選挙事務所からの電話や、荷物運びに駆り出され、そして試験に落ちました。(ただの実力不足だったのですが)。翌年、医学部に合格できました。
地方の大学で、仕送りは月8-10万円、学費は年間授業料9万6千円でした。なんと安いことか。税金で入学させていただきました。しかし、姉と二人の弟がいて、これから弟二人が進学するときにサラリーマンだった父は大変だったと思います。医学書は高価で月に5-6万円かかることもあり、食事つきの家庭教師や結婚式場のメイドさんのアルバイトをし(残ったお菓子と花が楽しみでした)、そして食費は月5千円で何とかしのいだこともありました。このころのおかげで料理は上手になりました。
国家試験に合格し、いよいよ研修医。月の手当ては3万円で、生活費は当直のバイトでした。研修医2年目に結婚しましたが、主人も同様の状況で、大学病院に勤務の傍ら、土日の当直で生活費を捻出しました。そして、双子を妊娠し、4か月目で、切迫流産でそのまま生まれるまで入院していました。その間に主人はアメリカに留学してしまい、通帳には渡航費用だけが残るのみでした。出産後6ヶ月で、渡米しましたが、その時の所持金(全財産)は餞別の5万円と数千円でした。ドキドキの渡航でした。
帰国後、大学病院に戻りましたが、子供の保育園の申し込みに福祉事務所に行った折、職員の方から、待機児童はたくさんいて、お医者さんは生活に困らないので優先順位が低いですといわれました。そして入園できませんでした。そのためベビーシッター、義母、実家の母、叔母などを駆使して、仕事を続けました。しかし、無給医局員だったので、アルバイトで、手取り20万円弱はすべてベビーシッター費用になりました。
二人目の子は病院の保育園に入れましたが、今度は学童期の上の子の夏休み、冬休み、春休みが大変でした。保育園だけでなく、学童期の長期の休みが問題でした。
二人の子供は育ち、独立しましたが、今度は義母の介護がありました。結局介護施設に入所しましたが、自身がもっと在宅で介護をすればよかったとの罪悪感にさいなまれる毎日です。介護施設に親を入所させた家族の多くは罪悪感に襲われます。
子育ての問題、働く女性の環境はまだまだ、改善されていません。熱を出した子供を診察し、お母さんに保育園はお休みねという時、申し訳ない気持ちでいっぱいです。病児保育はあるものの、きっと職場でもお母さんは大変だろうと察します。
超高齢社会となった今、独居の方も増え、さみしさで医療機関を何度も受診される方も多く、医療も介護も使わずにできることがたくさんあると感じています。
そして、たばこを吸わなければ病気にならなかったのにと思われる人がなんと多いことか。
近所の人のために奔走していた父の思いが、今やっと理解できたところです。誰かのために私にできることがたくさんあると気づきました。
1983年より葛飾区在住 | 学歴 | 山形大学医学部卒 | |
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家族 | 夫、一男一女 | 趣味 | ガーデニング、トレッキング、料理 |
昭和31年(1956年)7月14日生、埼玉県出身。葛飾区在住(1983年より) |
昭和50年(1975年)埼玉県立熊谷女子高等学校卒 |
昭和57年(1982年)山形大学医学部卒 |
昭和57年(1982年)医師国家試験合格 |
昭和57年(1982年)順天堂大学医学部附属病院内科にて研修 |
昭和59年(1984年)同腎臓内科に入局 |
昭和60年(1985年)~昭和61年(1986年) 夫の米国NIH留学に同行し、メリーランド州に居住 |
平成3年(1991年)より東京都葛飾区柴又にて猪口医院開業 開業の傍ら順天堂大学医学部第一解剖学講座にて非常勤講師(1999-2003年) |
平成25年(2013年)葛飾区医師会理事(2013-2015年) |